もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
主よ、わが口に門守を置いて、 わがくちびるの戸を守ってください。
「いのちを愛し、 さいわいな日々を過ごそうと願う人は、 舌を制して悪を言わず、 くちびるを閉じて偽りを語らず、
また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。
正しく歩む貧しい者は、 曲ったことを言う愚かな者にまさる。
あなたの舌をおさえて悪を言わせず、 あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな。
正しい者の口は知恵をいだし、偽りの舌は抜かれる。
言葉が多ければ、とがを免れない、 自分のくちびるを制する者は知恵がある。
いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。
そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。
人が見て自分で正しいとする道があり、 その終りはついに死にいたる道となるものがある。
だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。
もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。
人が見て自ら正しいとする道でも、 その終りはついに死に至る道となるものがある。
あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。
そして、かの「重だった人たち」からは――彼らがどんな人であったにしても、それは、わたしには全く問題ではない。神は人を分け隔てなさらないのだから――事実、かの「重だった人たち」は、わたしに何も加えることをしなかった。
人間のいましめを教として教え、 無意味にわたしを拝んでいる』。
彼は灰を食い、迷った心に惑わされて、おのれを救うことができず、また「わが右の手に偽りがあるではないか」と言わない。
悪しき者はひねもす人の物をむさぼる、 正しい者は与えて惜しまない。
もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。
人間のいましめを教として教え、 無意味にわたしを拝んでいる』」。
あなたがたは言った、『神に仕える事はつまらない。われわれがその命令を守り、かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか。
あなたがたは、もはや、 むなしい供え物を携えてきてはならない。 薫香は、わたしの忌みきらうものだ。 新月、安息日、また会衆を呼び集めること―― わたしは不義と聖会とに耐えられない。
すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。
王のくちびるには神の決定がある、 さばきをするとき、その口に誤りがない。
知恵ある者の舌は知識をわかち与え、 愚かな者の口は愚かを吐き出す。
あなたはさとりのない馬のようであってはならない。 また騾馬のようであってはならない。 彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、 あなたに従わないであろう。
ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。
あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。
かつ、わたしに賜わった恵みを知って、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。そこで、わたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのである。
だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。
あなたが神にむかって気をいらだて、 このような言葉をあなたの口から出すのはなぜか。
神がわたしの綱を解いて、 わたしを卑しめられたので、 彼らもわたしの前に慎みを捨てた。